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2010年2月16日火曜日

カントは陰謀論者

超越論的とは 
私は、対象にではなく、対象がアプリオリに認識されうるかぎりで、この対象を認識するわれわれの認識方法一般にかかわるところの一切の認識を超越論的と呼ぶ 』 (カントの法思想における歴史哲学の意義より)

 たぶん世界一簡単な『純粋理性批判』からの学び方。

この記事を意訳するとタイトルのようなことになりますね。
(今回のブログはカントの著作へのコメントではなくて、カントについて論じたこの記事へのコメント)

「ぼくらにはこう見える」
ということは、「ぼくらがそう見てしまう仕組みがある」ってことだ。
その仕組みはぼくらの目には見えないけれど、それをこそ、研究しなければいけない。

・・・中略

「あれは……だ」などと簡単に決めつけるようなことは、もうしない。
「自分には、そういうふうに見える」というふうに受け止める。
そして、「そう見える自分の事情、そう見える仕組みを、まず解明しなければいけないな」と思う。
ぼくらは「超越論的」に自己批評(批評も批判もドイツ語で「Kritik」)するのである。
差別問題について、歴史解釈について、民族問題について。また、さまざまな価値観の衝突について。


氷山の一角のように海面に浮かんでいる氷の先にどんな氷の塊が潜んでいるか想像することが大切です。
ニュースの報道や公表される資料を鵜呑みにすることは非常に危険で、
なぜ、誰が、何のために、どのように、どのタイミングで、ニュースが報道されるのか、資料を公表しているのか、
公表される情報の裏にあるものを見抜くことが重要です。

そしてこうした裏を指摘することを現代社会では陰謀論として批判されるわけですが、
この時も、なぜ、誰が、何のために、どのように、どのタイミングで、批判しているのか見極めることが重要です。

カントも批判の自由は大切と言っていますが、いつの時代も権力者の周りには批判の自由はなく、権力者にとって都合のいい情報を作る学者しか存在しません。

アフガン・イラク戦争、地球温暖化、中国の台頭、金融危機、その他諸々、カントがこれらの事象についてコメントしていたら、陰謀論者として干されていたでしょうね。

ところでこの理性の批判によってのみ、唯物論、宿命論、無神論、自由思想的な無信仰、狂信や迷信など一般的に有害となるものが、そして最後にはまだ観念論や懐疑論など、むしろ学派にとって有害であって、公衆にはいきわたりにくいものが、根こそぎにさえされうる。政府が学者の問題にこそかかわるのが有益であるとされるなら、理性の仕事がそれによってのみ確固とした足場を与えられうるところの、そうした批判の自由を助成することが、諸学ならびに人類に対する政府の賢明な配慮にとっては、諸学派の笑うべき専制政治を支持するよりも、はるかにふさわしいことであって、そうした諸学派は、彼らのつむいだクモの巣が破れると、公共の危険だと声高なさけびをあげるが、公共は彼らのクモの巣などいまだかつて注意したことがなく、だから(公共が)損失を感じることも決してありえないのである。』(カントの法思想における歴史哲学の意義より)

このクモの巣という比喩は絶妙なたとえで、
クモの巣は何も知らず飛んでいる虫を捕まるために置いてある罠のこと。
諸学派(権力者)が公共(一般大衆)を操る(だます)ことを連想させるのには、ピッタリの表現です。

2 件のコメント:

  1. リアル前頭七枚目

    蜘蛛の巣は、確かに絶妙だね。カントを"陰謀論者"と表現するのも、結構絶妙だと思うw

    まぁ蜘蛛の巣ってのは何者かの意図とは独立に、自然的に存在しているものも多くて、権力者の多くも自然的蜘蛛の巣には引っかかってる。蜘蛛の巣に引っかかってる奴らが、それに気付かないで蜘蛛の巣をはるからタチが悪い。

    それにしてもこのシステム、コメントしにくいなぁw

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  2. >蜘蛛の巣に引っかかってる奴らが、それに気付かないで蜘蛛の巣をはるからタチが悪い。
    滑稽な構図だなw
    でもそうやって情報が一人歩きするから怖いよね。


    Google Bloggerは投稿するにはいろいろ便利なんだけど、コメントのシステムはちょっと排他的。
    日本人の感覚には合わないのかも。

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